先日のAWAYA個展『阿の音ツアー09’桜廻帰(ハナカイキ)』が行われるにあたって、京都市西京区を巡る、AWAYAの音の採集とAntennaの映像素材の採集の旅に行ってきました。採集された音や映像は、2日目のライヴパフォーマンスの際に用いられました。
京都市西京区はAntennaが制作場所を構え、活動を拠点とする地です。昭和51年に山科区とともに生まれた、京都市で一番新しい区でもあります。しかしこの西京区には京都市立芸術大学のある大枝を中心に、京の都が生まれるより遥か昔の古代から脈々と息づく歴史がありました。
今回はAntennaにとっても新たな発見が満載の旅となりました。
その西京区の歴史をふまえながら、旅の様子をご紹介致します。
まずは、京都市から亀岡市へ向かう途中に通る老ノ坂峠に伝わる首塚伝説。
このあたりは大枝山と呼ばれ、平安時代、酒呑童子という鬼の頭領がこのあたりの住民を苦しめることから、天皇の指令によって源頼光が退治したという伝説が残っている場所です。
老ノ坂トンネルを少し抜けたあたりに円墳があり、首塚大明神の額がかかった小さな祠があります。首塚大明神までの道は、なんとも言えないどんよりとした空気。このあたりは、心霊スポットでも有名です。

伝説に残っている「おおえやま」が現在の京都府加佐郡大江町であるという説もあり、本当にこの円墳が酒呑童子の墓であるかは定かではありません。しかし山陰街道でもあるこの大枝山の老ノ坂峠が、旅人を脅かす山賊の棲家となり旅人たちを悩ませていた可能性は十分あるとされています。おそらく室町時代に「おおえやま」の頼光伝説が有名になった際に、このあたりに住む人々が、この円墳と結びつけて考えたと言われています。
それほど当時この峠を超えることは大変だったのかもしれませんね。

次は桓武天皇御母御陵、大枝陵。大和の平城京を捨て、長岡京に遷都した桓武天皇。その母と言われる高野新笠(たかののにいがさ)の御陵が大枝にあります。

高野新笠は、父・和乙継(やまとのおとつぐ)と母・土師真妹(はじのまいも)の間に生まれ、光仁天皇の夫人となり、桓武天皇が生まれました。父方の和氏は百済系の渡来氏族といわれ、母方の土師氏は喪葬儀礼や山稜造りなどに従事した氏族でした。
後に土師氏が桓武天皇から大枝の性を賜っていることから、土師氏は大枝地方出身であり、高野新笠と桓武天皇母子はこの地で暮らしていたと言われています。そして長岡京に近いこの土地に住んでいたことが長岡遷都の背景にあったと言われています。
しかし、母の土師真妹の墓が現奈良県生駒郡にあることから、真妹は大和の在住者であり、大枝の性が賜われたのは高野新笠の陵墓名に因んだものであるといわれ、土師氏はもとより高野新笠も桓武天皇も大枝とは直接関わりがなかったのでは、という説が有力になっているようです。
また、この後に行った宇和多陵。この陵墓は桓武天皇夫人・藤原旅子(ふじわらのたびこ)の墓と言われており、大枝陵から旧山陰街道を少し下ったところにありました。
児子神社の脇の竹林を抜けて、ひっそりと佇む陵墓。

では何故大枝に高野新笠や藤原旅子の陵墓があるかというと、当時は都の北方に天皇や皇族の陵墓を建てることが習わしだったようで、この大枝が長岡京の北方にあたるためだそう。
慣習に従ってのことだったようですが、この他桓武天皇の子・淳和天皇陵など、この地には桓武天皇ゆかりの人物の陵墓が多いのも確かです。どの御陵も大枝の静かな土地にひっそりと眠っており、澄み渡った心地の良い空気に囲まれていました。
そして大枝に伝わる伝説の舞台の一つ、弁天水。大枝陵のすぐ向かいにありました。

住宅地の中に突然現れる弁天さまを祀った井戸。現在もこんこんと湧き出るこの井戸には、弘法大師にまつわる言い伝えが残っています。
弘法大師がこの地を通ったとき、村人に一杯の水を求めました。この付近に水がなかったのですが、遠くから汲んで差し上げたところ、弘法大師が大変喜び水がないのを哀れみ、持っていた杖で水脈を探してみせたと言われています。
このような清水伝説とよばれる話は弘法大師に関して多く残されているようですが、これもまた真偽のほどは確かではありません。しかし、このように語り継がれてきたわけには、旅人が道中の水の恵みを有り難く大切にしてきた心が背景にあるのでしょう。
次は大枝福西町にある、大蛇が池。

団地の中に突如として現れた、予想以上に大きな池。
このあたりは池が多く、その貯め池群の1つなのでしょうが、「大蛇が池」という名前の由来など詳しいことはわかりませんでした。
お散歩をしてる地元の方々も多く、気持ちのよい場所でした。
後半は、大原野神社、勝持寺、渡月橋、天皇の社での様子をご紹介します。